2011年6月8日水曜日

安田くんのこと

大学の同期だった安田くんのことを、時々思い出す。

「雲仙・普賢岳の大火砕流から20年」というニュース(6/3)にも
当時、大学1年生の夏休み、大火砕流に見舞われた島原市まで
募金を集めながら自転車で向かった彼のことを思い出す。
自分にできる何かをせずにはいられなかった安田くんの正義感と行動力は
学内でも随所で発揮され、私も彼を知ることとなったのだけれど
彼の生き方はあまりに険しく、儚かった。

誰よりも熱く生き、誰よりも死から遠い所に居ると思われた彼が自ら下した決断に
学内は(学部・学年を越えて大学全体が)騒然とし、茫然とした。




安田くんと親しかった朋ちゃんと
共に、寿子の研究に便乗してインドを訪ねたのは
生前の安田くんがその地で見たものを、私も垣間見たかったから。
土埃と熱気渦巻くコルカタの地で、聖なる川・ガンガーのほとりで、彼は何を見たんだろう。
その後で、どうして絶望しなくてはならなかったんだろう。
答えはわからない。
彼が絶望したのかどうかも、誰にもわからない。

ラジオから流れる長淵剛に、安田くんを想う。
なんで今、安田くんはいないんだろう。
彼が生きていたら、この時代に何を想い、何をしていただろう。
彼が好きだった長淵は、今も昔も「生きろ」と唄っているのに。

それから想うことはいつも同じ。
お寺で営まれた安田くんの告別式の時のこと。
彼の死を悼んでたくさんの学生が参列していた。
その場に居た誰もが安田くんを想い、泣き暮れていた。
そんな中で、誰とも言葉を交わすことなく、一人バイクで帰ろうとした私に
「事故るなよ!」と声をかけてくれた人がいた。
あの時の運転は、確かにいつにも増して危うさをまとっていたと思う。
亡くなった命と同じく、今ここに生きている命を大切に、尊ぶひとが
そこに居た。

今でも不意に、あの時の砺波さんの声を思い出してハッとする。

20年経っても、生きている言葉がある。
遠く離れても、守ってくれているひとが、たくさんいるのだと思う。

天にも地にも、今日もつながっている皆様に感謝。